資料室

カリオストロ

CAGLIOSTRO

マーク・コーンウォール

by Marc Cornwall

 スイスの都市バーゼルは、ロンドンから飛行機で向かえば、それほど遠くありません。私は最近ちょっとした週末の休暇を取り、薬剤師の友人たちとこの都市を訪れました。バーゼルでは大規模な製薬産業が発展しています。どのような産業でも、その伝統を誇りに思うものですが、製薬業界も同じで、バーゼルには薬学の進歩を年代順に記録して展示している薬学歴史博物館があります。

 この博物館を運営しているのはバーゼル大学です。スイスの最も古い大学であり、エラスムス、パラケルスス、フリードリヒ・ニーチェのような著名な人たちの出身校です。この博物館の素晴らしい展示物と古いたたずまいは、過去の多くのできごとを明らかにしてくれます。確かに、ただでさえ美しく歴史的に興味深いバーゼルで、この博物館が必見の観光スポットのトップ10に挙げられることはありません。しかし、西洋の神秘学の歴史に興味があり、そのような場所を訪れたいと思っている人にとっては、この博物館は特に魅力的な場所です。さらに、私がそこで見つけたバラ十字会の歴史の一場面は、私が知る限り、ほとんどの人々が知らない逸話です。

 私たちは旅の締めくくりに、この薬学歴史博物館を訪れました。私が最も興味深いと思ったのは、当時と同じ大きさに復元された錬金術師の実験室でした。そして、そろそろ博物館を出発しようとしていたときに、博物館を出てほんの数歩のところで、ドキリとする奇妙な案内板を見つけました。左手のほうに、地下に続く急な階段の手すりがあり、その上に地味な案内板がかかっていたのです。そこにはドイツ語で次のように書かれていました。「カリオストロはここで黄金を作った」。あの謎めいた神秘家カリオストロの業績についての、驚くほど好意的な言葉がそこには書かれていたのです。それは伝奇的な小説を好む人たちや、事実を脚色して空想にふける人々によって設置された看板ではありません。それは、スイスで3番目に大きい都市の、科学博物館の公式の案内板なのです。そうです。まさに公式のものです。

 私はワクワクしながら、下の暗闇へと続いている階段を、手すりの上からじっと見つめました。あの有名なカリオストロが、バーゼルに滞在していたときに使っていた古い部屋が、かろうじて見えました。その部屋は一部が地下になっていました。私は彼の簡単な記事を読んだことがありましたが、この博物館を訪れるまでは、彼について詳しいことはほとんど知りませんでした。カリオストロが、フランスにいたときと同じように卑金属を黄金に変えた場所だとされている部屋を見るために、私は友人たちを引っ張って階段を降りていきました。常温核融合のような方法を発見したとすれば別ですが、卑金属を黄金に変えるという錬金術は、科学的に考えればばかげたことです。しかし、先ほどの案内板を掲げているのですから、この博物館の専門家は、このことに対してどうやら異議を唱えていないようです。ですから、この部屋にはじっくりと見るだけの価値があります。何とも奇妙なことに、錬金術の子孫にあたる現代の薬学に携わる人たちが、その最初期の先駆者のひとりが実験に精を出していた、まさにその建物の真横に、歴史博物館を建てたのです。

 カリオストロの生涯については多くのことが書かれていますが、きわめて率直に言えば、そのほとんどは、くだらない話ばかりです。こうした物語の多くによれば、バーゼルで黄金を作ったことは、カリオストロの生涯を締めくくるできごとの一つとされていますが、彼の生涯はまるで、とても風変りな作り話のように描かれています。いずれにしても、少し詳しく調べてみることにしましょう。アレッサンドロ・ディ・カリオストロは、1743年にシチリア島の中心都市パレルモで生まれたとされています。古い時代の伝記作家のほとんどは、彼の本名がジュゼッペ・バルサモ(Giuseppe Balsamo)であると述べています。しかし、カリオストロについてのイメージは、一人のイタリア人の伝記作家によって主として作られたものであるのを知っておくのは重要なことです。彼はカリオストロの伝記を書くようにバチカンから依頼され報酬を受けていました。したがってその伝記は、カトリック思想のもとに生まれたけれども、後年火あぶりの刑に値するとされた人物を貶めることを意図とした作り話であると考える、十分な根拠があります。そして、この伝記をもとに、カリオストロについての他の多くの物語が創作されたのです。

 カリオストロのイメージに影響している別の要因に、いわゆる『カリオストロの回想録』がありますが、現在では、多くの専門家が偽作だと考えています。しかし、何世紀にもわたって百科事典や歴史的な資料に、この"回想録"は影響を与えてきたのです。ですから、歴史的に確実な記録はごくわずかしか存在していないということに留意しながら、現存する資料を調べ、もっともらしい作り話を排除して、事実を少しずつ集めてみることにしましょう。

 カリオストロは、ギリシャ、エジプト、アラビア(イエメン)、ペルシャ、ロドス島(訳注)そしてヨーロッパのほとんどの国々で、人生のある期間を過ごしています。エジプトにいる間に、彼は古代エジプトの神秘学派の伝統を受け継ぐ団体に入り、クフ王の大ピラミッドやナイル川沿岸の他のいくつかの神殿で、入門儀式を授与されました。彼は古代エジプトの最も深遠な神秘を授けられ、この神秘学派の人々から見ても賢者と呼ばれるに足る人物になったと言われています。私は「歩く疑問符」と呼ばれるバラ十字会員のひとりですから、もちろん、そのような主張に関しては少し懐疑的です。結局のところ、これらの言い伝えは、先ほど述べた文書に由来しているからです。彼の生きていた時代に、まだ砂漠の砂の中に埋まっていた古代エジプトの遺跡が、どれほどの数あったでしょうか。疑う余地もなく、実際のところ、ほとんどすべてがまだ埋まっていたのです。古代エジプトの神殿のほとんどが、カリオストロの時代には荒廃していたことが知られています。しかし、そのうちのいくつかには、秘密の通路を通って入ることができたのかもしれません。カリオストロがとても博識な学者であり、驚異的な知識を備えていたことは、不確かな伝記を書いている作家でさえ認めています。ですから、南イタリアの小さな田舎町ではない別の場所で、彼がそのような知識を得たことは明らかです。
訳注:ロドス島(the island of Rhodes):エーゲ海南東部にあるドデカネス諸島の最大の島。現在はギリシャ領。ホスピタル騎士団(後述)が築いた城塞都市が良好に保存されていて、世界遺産に登録されている。

 ロドス島で、彼は錬金術と超自然的な科学を研究したと言われており、ホスピタル騎士団(訳注)に入会したとされています。この騎士団のグランドマスターとの親密な交友を通して、彼は後に、ローマの名家の人々の多くと知り合いになりました。彼はヨーロッパに戻り、いくつかの大都市を訪れました。そして、錬金術師、哲学者、治療家、そして通説によればバラ十字会員としての彼の名声が広まっていきました。カリオストロをジュゼッペ・バルサモと呼んだ伝記作家たちは、彼のことを卑しむべき詐欺師、大ぼら吹き、不信心者だと表現しています。しかし、それらの作品の中には、二通りの性格の人物が描かれており、その隔たりがとても大きいので、描かれていたのは、まったく別の二人の人物であったのか、あるいはこれも考えられることだと思うのですが、バチカンにそそのかされて、カリオストロの評判を傷つけようとするたくらみであったか、このいずれかが事実であることが明らかであるように私には思えるのです。
訳注:ホスピタル騎士団(Knights Hospitalers):11世紀の末に、巡礼者を救護するためにエルサレムに創設された騎士の修道会。別名聖ヨハネ騎士団(Knights of the Order of St John of Jerusalem)。本部は、1310年にロドス島に、1530年にマルタ島に移っている。

 カリオストロは若いころ、ひねくれた性格でとても不道徳な人物だったとされています。しかし、パリとストラスブールでの、彼の後年の姿を描いた伝記作家たちは、わずかな例外を除いては、彼の能力や一見奇跡のように思われる行動を賞賛しています。これらの伝記作家たちは、カリオストロの目覚ましい行為に密かに驚きを感じ、彼の若いころについての伝聞を疑っていることが感じられます。たとえばウェイト(Waite)は、彼がバルサモと呼んでいるカリオストロの生涯についての短い描写の中で、他の作家たちとまったく同じように、イタリアの伝記作家の物語を引用しています。その後に、物語の中でカリオストロが行ったとされている、さまざまな道徳的な行いと不道徳な行いが首尾一貫していないことに、まるで突然気づいたかのようにこう言っています。「しかし、この話が真実かどうかには、疑いの余地がないわけではない」。

驚くべき実演

Phenomenal Demonstrations

 伝えられるところでは、カリオストロは意気揚々とストラスブールに乗り込んでいきました。彼の治療の能力を聞きつけていた多数の病人が待ちかまえていて、彼から治療を受けることを望んでいたという、いくつかの記録が残されています。「有名な治療家がやってきて、彼ら全員を治療した。ある者はただ触れるだけで治し、ある者にはどうやら言葉をかけたり少々の金を与えたりして治したらしい。そして、残りの者には彼の万能薬、つまり特製の薬を与えて治したのである」。病人が集まっていたストラスブールの宿泊先に彼が着いたときの様子はこう書かれています。「(前略)カリオストロは、拍手喝采の中を玄関から入ってきて、彼の到着に合わせて用意された、とびきり上等な部屋の扉まで、おびただしい数の人が付いていった」。

 彼の超自然的な現象の実演は、どこに行っても人々を驚かせました。彼は通常は目に見えない物体を出現させたり、同時に2つの場所に姿を現したりすることができたなどと言われています。つまり、私にはまだまだ練習が必要な技です。このような能力の実演は、教育を受けていない、信じやすい大勢の人々の前でだけ行われたのではありませんでした。多くの知識人たちがこれらの実演を見にきていました。ある伝記作家は渋々ながら認めています。「当時の証言によって、次のことははっきりとしている。つまり、これらの実演の大部分は本物であり、メスメル(訳注)と同じ能力を使ったということに、ほとんど疑いはない」。別な言い方をすれば、目の前にいたすべての人にカリオストロが催眠術(メスメルの術)をかけ、惑わせて、彼の能力について、言われたままのことを信じてしまうようにしたと読者に思わせることを、この伝記作家は意図しています。また、この同じ作家は別の個所では、カリオストロの能力が詐欺であると書いています。
訳注:メスメル(F.A. Mesmer、1733-1815):オーストラリアの医師。動物磁気、催眠術を用いることによって治療を行なったとされる。

 次のような文章もあります。「有名な神秘家で錬金術師であったアレッサンドロ・カリオストロ伯爵の、荘重で人目を引く住まいが、あわただしく騒がしいパリの中心街に建っている。建物を囲む高い石垣と、きたえられた鉄で作られた門は、外の世界との関わりを閉ざし、神秘的な雰囲気を守っているかのようだ。突き出た屋根裏部屋のバルコニーに、錬金術師であり哲学者であったこの人物は、玉石の敷かれた中庭から、秘密の錬金術の実験に用いる薬品の入った樽や器具の箱を引き上げた。カリオストロは東方の神秘学派で学び、後にその知識を王や権力者たちに教えた。富と権力を所有するようになったカリオストロは、恐れられ憎まれるようになった。そして、告訴され、迫害され、最後には無実の罪で終身刑を言い渡された。」

 一方で、次のようにも伝えられています。「(前略)彼はさまざまな病院の患者を訪ね、そこに勤める医師たちが義務を果たすことに、敬意を込めて参加し、思慮分別を持って自分の意見を提案した。そして、古い処置を非難するのではなく、経験に根差した技法に彼の新しい技法が組み入れられるように努力していた」。このような話とバルサモの性格が、首尾一貫していると、どのようにしたら考えられるというのでしょうか。冷酷な詐欺師で治療の知識を実際には持っていない者が、このような思いやりのある行為を行なうことが可能でしょうか。ましてや、訪問した病院の医師たちの仕事に参加するなどということができるでしょうか。

錬金術師の実験室の原寸の復元。スイスのバーゼル大学の薬学歴史博物館にて。

 さらに、彼は当時知られていた技法を非難することなく、彼自身の技術を医師たちの技術に組み入れようとしていたのです。そして、彼は医師たちに拒絶されてはいなかったということが分かります。医師たちは、彼が病院で治療の仕事に参加することを許していたのです。このような振る舞いは、どこかにいるようなペテン師やいかさま医師の行ないではありません。実際に、彼を批判する人々もこのように認めています。「(前略)彼は今までに聞いたこともない治療法について語っていた。それは、現在のところ可能性があるという推測でしかない物質変性の技法よりも優れた、錬金術的な技法であった」。

 1771年に、カリオストロはパリに移りました。「彼は魔術師として活動するようになり、霊を呼び出してパリの人々を驚かせた。それは、依頼者の希望に応じて、鏡や澄んだ水を入れた盆に出現させるというものだった。これらの霊は、死んだ人の姿であることも、生きている人の姿であることもあった。そして、誰かと共謀したペテンであると考えることがほとんど不可能であり、偶然の一致と言うこともできない場合があったので、カリオストロが起こした結果は、時として彼自身でさえも驚かざるを得ないものであると考えられる理由が存在した」。この伝記作家は、カリオストロではなくて作者自身が驚いたと書くべきだったと思われます。この伝記作家は、詐欺をほのめかすような何かを探しては見たものの、何も見つけることができず、カリオストロが起こした驚くべき、そして説明のつかない現象を認めたのだということは明らかに思われます。伝記作家のほぼすべてが、カリオストロはいかさま師であったという前提に立って書き始めているということに留意してください。しかし、いったん伝記を書き進めると、そのような考えを変えずにいるのは難しいということに、頻繁に気づくのでした。

天才かペテン師か

Genius or Impostor

 フランスのルイ16世は、カリオストロに個人的に会った後に、彼に夢中になりました。この王は、カリオストロが天才であり、錬金術を使う有能な哲学者であると深く確信していたので、彼のことを悪く言うものがいれば、誰であれ反逆の罪を犯したと見なすと宣言しました。つまり、カリオストロは国王の後援を得たのです。王のお墨付きを得たことで、カリオストロにはフランスの最も上流の社交界への扉が開かれました。しかし、ある伝記作家は、この件に関連してカリオストロの放蕩ぶりを示す逸話を伝記に含めています。それは、パリのサン・クロード通りにある壮麗な邸宅に設けられた殿堂で行なわれているとされました。

 カリオストロは、パリで「エジプト・メイソンリー」のロッジを創設したり、バラ十字会の儀式を授与したり、神秘学派の式典を行ったりしました。また、信じられないような治療を行ったり、さまざまな能力の実演を行ないました。こうした彼の活動は、カトリック教会にとって、大きな懸念材料になっていきました。彼は上流社会の人々から貧しい人々にまで、広く慕われていました。彼は、道徳を重んじることで人々から尊敬を集めていただけでなく、貧しい人々に対して気前よく施し、献身的な活動や慈善活動を行っていることが明らかだったので、カトリック教会は、ほとんど許容の余地がないほど、彼を激しく敵視するようになりました。実に奇妙なことですが、カトリック教会の敵意にもかかわらず、カリオストロはロアン枢機卿の親しい友人になりました。このことは、彼の最も致命的な誤りの一つであったことが後に判明します。「(前略)まもなく彼は、ロアン枢機卿の兄スービーズ公が猩紅熱で命を落としかけていたのを奇跡的に治療したことで、名士の地位にまで昇ることになった。それ以降、この達人の肖像画がパリのいたるところで見られるようになった」。

 やがてカリオストロは、有名な「ダイヤモンドの首飾り事件」に巻き込まれました。ロアン枢機卿がその中心人物でした。ロアン枢機卿は、彼の後援者であった女性から、王妃マリー・アントワネットが彼に恋をしていると信じ込まされていました。枢機卿は、王妃のために途方もない金額のネックレスを買いましたが、その代金を支払うことができませんでした。枢機卿は、不適切な行ないのために以前に免職されていましたが、おそらく、王の恩寵を受けて職に復帰することを望んでいたのでしょう。裁判で、カリオストロは無罪となりました。しかし、ある伝記作家が書いているように、彼は"他の理由で"バスティーユに投獄されました。その理由についてはそれ以上の説明は書かれていません。彼は後にロンドンに逃れることができ、そこに滞在している間に、フランス中に蔓延している腐敗状態について書き、革命がすぐに起こることを予言しました。そのため、教会と王党派の人々の両方に憎まれることになりましたが、彼はようやくバーゼルに安息の地を見いだしました。

死刑の判決を受けて

Under Penalty of Death

 バーゼルにいるときには、彼を信奉する神秘学派のメンバーの数名が錬金術の研究を行っていました。その場所が、私が見つめているまさにこの地下実験室です。フランスに残った信奉者たちも、彼を完全に見捨てたわけではありませんでした。彼の創設したエジプト・メイソンリーのロッジとバラ十字会の殿堂は活動を続けており、カトリックの高い地位にある聖職者たちを大いに悩ませていました。というのも、カリオストロに能力を与えていた技法を学ぶことを、パリの人々が熱望していたからです。さらに、最終的には無罪となったロアン枢機卿は、自分のことをダイヤモンド首飾り事件に巻き込んでさらし者にしたのはカリオストロだと考えていたようです。ロアン枢機卿は主にこのことが理由で、神秘家であり錬金術師であるカリオストロに恨みを抱き、聖職者としての権力を、カリオストロを陥れるために使うようになります。

 さまざまな不利な状況があるにもかかわらず、カリオストロはローマに戻りました。以前のエジプト・メイソンリーとバラ十字会の会員たちは、この永遠なる都市に、さらに多くのロッジを建設するように彼に懇願していました。ローマにフリーメーソンのロッジを建設することは、カトリック教会の定めでは死罪であったにもかかわらず、カリオストロは、これらの問題に対して、常に限りない勇気を示しました。カトリック教会の命令を公然と無視して、彼はロッジを組織し、〈大いなる光〉を探し求めている熱心な人々を入会させました。1789年9月27日に彼は、異端審問を行なう宗教裁判所の命令により逮捕されました。

 教会の当局がカリオストロのために、「知識と誠実さが一般に認められている」弁護士を雇ったとイタリアの伝記作家は書いています。そこには、ローマ教会の独裁的な方針についての歴史的な印象を軽くしようとする意図が見られます。カリオストロは、この弁護士に頼らざるを得ず、自身の正しい判断に反して、忌むべき罪を犯したということが事実であると述べ、彼に課せられた多くの容疑を決して否認しないように仕向けられました。そうすれば、教会の当局からの慈悲を受けることができ、すぐにイタリアを離れることが許されると彼は信じ込まされていたのです。

 しかし、裁判の判決が言い渡されました。判決に対して民衆の一部はひどく憤り、後に判決は、厳重に警備されている聖レオ刑務所での終身刑に軽減されました。まったく奇妙なことですが、判決が言い渡された時も、投獄されている間も、カリオストロは比較的健康であったにもかかわらず、2年後に、わずか50歳で亡くなりました。彼の死にまつわる物語は、まったく謎めいたままです。ある記録によると、彼は逃亡しようとして、彼が懺悔(ざんげ)のために呼んだ司祭を絞殺しようと試み、そのために殺されたとされています。別な記録では、彼自身が自分の首を絞めたとされています。

 カリオストロが逮捕された時、ローマ教会は、彼が自身の錬金術の研究を元に書いた全ての手稿を押収しました。ローマ教会はまた、カリオストロが注意深く収集してきた東方の秘伝的哲学についての書物も持ち去りました。彼の持っていたフリーメーソンとバラ十字会に関する記録も没収されました。もしかしたら、それらの記録はまだ、バチカンの文書館の禁書の保管庫にあるのかもしれません。カリオストロの回想録が書かれたとされているのは、牢獄にいた2年の間、つまり死の直前であり、彼の人生の最も重要な時期でした。回想録とされているものが本物かどうかは、彼自身が肯定することも否定することも決してできないわけですが、彼がかつて教え、書き、実演してきたすべてのことに異議を唱えています。その内容は、彼が自身の生涯で行ってきたことと完全に矛盾しているので、彼に対して行なわれた異端審問所の手口の結果として、この回想録ができあがったということに疑いの余地はほとんどありません。

 彼の妻もまた取り調べられ、ヨーロッパ中に知られている事実であったカリオストロの雄弁さと優れた才能を、「異端審問の恐怖のもとで」否定させられました。彼の妻は、後に修道院に幽閉されたのですが、脅迫を受けていたにもかかわらず、彼の技法のいくつかからは、説明のつかない結果が生じたと主張し続けました。妻は、カリオストロが「魔術的な技法の力によって支援されていた」に違いないと述べました。フランス革命の軍勢が、後にカリオストロを、投獄されている要塞から救い出そうとしました。それは、彼を信奉していたフランスの民衆が抱いていた気持ちの表れでした。しかし、彼らは遅すぎました。彼はすでに死んでいたのです。

 熟練した錬金術師であり神秘家であったこの人物がかつて、自分の実験室へと重い足取りで降りて行った階段を見つめながら、私は、カリオストロを非難し中傷する記事や伝記や作り話のすべては、ローマ教会によって投獄されていたときに彼が書いたとされる疑わしい回想録を、主として元にしているということを思い返していました。彼について書き、そしてその伝記が、他の多くの人に引用されることになったイタリアの作家は、彼についての主な情報を、この"回想録"と、カリオストロの個人的な書状に含まれていたとローマ教会が述べている事柄から得ていました。ですから、最近の著作に見られるカリオストロの人生についての描写も、カリオストロが書いたとされるそれらの情報源と同じくらい、根拠が怪しいものであるように思われます。

 カリオストロが錬金術の研究を行ったのは、スイスのバーゼルにあるこの実験室においてでした。この実験室にある道具と装置の中には、ヨーロッパで錬金術が全盛を究めていた15世紀に使われていたタイプのものさえあります。それらのオリジナルは、当時実際に使われていたもので、スイスの薬学学会によって収集されました。この部屋はまさに、化学、医学、薬学の父である錬金術への賛辞そのものです。この部屋の奥の方にあるドアには、次のように書かれた表示があります。「カリオストロはここで黄金を作り…」。これは、感謝の気持ちを忘れていない現代の科学団体による、この錬金術師の偉大さへの評価です。

 ※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラ十字」(No.139)の記事のひとつです。バラ十字会の公式メールマガジン「神秘学が伝える人生を変えるヒント」の購読をこちらから登録すると、この雑誌のPDFファイルを年に4回入手することができます。

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